「思う」は使うな。「である」を使え。

今年はBlogを書くことに決めたわけですが、
これから記事を投稿するにあたり、ひとつ心がけたいルールがあります。
それは、このBlogの記事の文末は「思う」という表現を極力排し、
「である」という簡潔な表現で書くということです。


「思う」という表現を使うのが不味い理由は以下の通りです。
・評価表現の後に使うと冗長になる
・根拠のないことをいくらでも述べられる
・説得力に欠ける

評価表現の後に使うと冗長になる

「この本は面白いと思う」と述べるよりも、
「この本は面白い」と述べたほうが簡潔です。
面白い、つまらない、美しい、汚い、よい、悪い、といった評価表現には
すでに『私は〜だと思う』という意味が内包されています。

根拠のないことをいくらでも述べられる

予想や推量を行うときにも「思う」という表現が使われますが、
「明日は晴れると思う」
「今年は株価が上がると思う」
といった形で、全く根拠を示さずに述べることができます。


「思う」という表現は極端な話、
全く出鱈目なことを述べても責められにくい性質を持っています。
しかし同時に、文章のもつ信憑性も曖昧にしてしまいます。


ここで、
「明日は晴れる」
「今年は株価が上がる」
という表現をすれば、聞き手は根拠を求めます。


聞き手が根拠を求めるということは、
話し手は根拠を示さなければならないということになります。
「明日は晴れる。なぜなら〜」
「今年は株価が上がる。なぜなら〜」


根拠の無い断定は「〜と思う」という文同様に信憑性はありません。
ただし、「なぜそう断定できるのか?」と根拠を要求することで、
オープンな議論を可能にすることができます。


一方、「〜と思う」という文に対して、
「なぜそう思うのか」と根拠を要求しても、
「そう思うからそう思う」というトートロジーで逃げ切ることが可能です。
これでは、オープンな議論は望むべくもありません。

説得力に欠ける

「思う」は自分が発信する情報に対して
自信が無い場合に使用する言葉です。
「私はこう思うのだけど、あなたは別に違う考えを持ってていいよ」
と優しく控えめな物言いに見えますが、
逆に、自分の発する情報に責任は持ちませんよ、
といった逃げ腰とも捉えられます。
説得力のある情報を発するためには
「思う」という言葉は極力使わない方がよいでしょう。




実際には、断定表現にもいくつか問題があるのですが、
それはまた別の機会に述べます。
とりあえず、今年のこのBlogでは「思う」という表現を
極力使わない情報発信を心がけるつもりです。